ARCHIVES
2024.03.02
菊川・幸町アーカイブス #02
#02は前回のお茶会の続き。幸町の思い出話はまだまだ続きます。
住宅地図|昭和33年(石川県立図書館蔵)
山本 : 幸町って旧町名ならんかったけ、幸町は昔のままか。
末岡 : 違う幸町は新町名。
村山 : うん、だって新竪町、早道町、枝町、それから中川除町と。
山本 : 旧町名て復活したん、全部ですか。
村山 : なん、いきかえっとらん。部分的なだけや。ほんで、何でも物事あったら新竪町2丁目町会とか新二会とか、新一会とか、校下に旧町名は残ってる。
山本 : 早道町とかあるんですか。
村山 : あるある。あるけれどもみんな幸町になった。
細川 : でも旧町名に復活すると、すごく複雑なことになるし、また区分けが大変だから。ある程度のところは旧町名復活したけど、100%ではない。
山本 : 西川さんのとこ幸町か。
西川 : うん。実家があるのは、幸町(まち)なんだって。
山本 : 幸町(まち)?幸町(ちょう)やろ?
西川 : 正しくは幸町(まち)だって、1、2カ月前の北國新聞載ってたよ。
細川 : へぇ〜。
金沢市大洪水、犀川大橋決壌|大正11年(新竪町公民館創立五十周年記念誌「しんたて」)
1960年に桜橋が洪水で流されたんですか。
末岡 : 小学校4年ぐらいの時かな。54年やったら。私何回も行ったわ。橋がかたがってえ(傾いて)、そこで自転車乗って上がったり下がったりしとった。
西川 : そんとき、下菊橋も落ちとったやろ。
末岡 : 大体同じような時や。台風で落ちとったよ。あっこ行って坂になった橋でよう遊んだわ。水ついた(浸水した)こともある。あっこの桜橋の前から流れてきて、梅雨の時に。
西川 : 決壊したて。
山本 : あー杉浦町の人はね。杉浦町はついたんや。
村山 : あんときの大水っちゅうがは、一番ひどかったん片町や。うん、大工町から河原町。あれ、何でか言ったら、大橋のあこ行ったら川が狭なっとるんや。おいて向こうにどんどがあったわい。ほんであそこの大橋の橋のとこで、みんな水上がったんや。
細川 : あそこで堤防切れてたもんね。決壊してしまっとったもんね。
村山 : んで大橋のあこから、片町へみんな水流れる。
山本 : 低いもんね、あっちの片町のほうね。
村山 : あの頃にあの片町の交差点の、あこのビル群、みんな地下に水溜まって。長町のポンプ車でみんな水あげたんや。ほんだけひどい大水やってん。
いつぐらいですか?
村山 : あれはね、おれ魚屋しとる時分やからね。
山本 : おれら小学校4年やろ?1964年かどっかその辺り?
細川 : 畳なんか全部起こしてね、外で乾かして白い薬に、あれなんていうの。
末岡 : DDT!
村山 : DDTはみんな撒いたわい。
新桜橋渡り初め|昭和38年(新竪町公民館創立五十周年記念誌「しんたて」)
86年につくられた菊川ヤングサロンはご存知ですか?
末岡 : 知っとる?俺は新竪やしわからんのかな。けど最初の頃なんか入った覚えあれんて。
山本 : 青年団か。
末岡 : 青年団はもう昔っからあってん。ほな青年団の前身か。
山本 : 新竪は、青年団あったん?
末岡 : 菊川は、ないっちゅうがかあるがかわからんけど、ヤングサロンに変えたんや、確か。
青年団って何ですか?
末岡 : 昔の、その若いもんが集まって盆踊りしたり、災害あったらみんなで協力したりとか、そういう感じの。
細川 : そうね、盆踊りやったりね。
山本 : 昔は田舎はみんなそうやな、青年団入って。消防入るのは大変ねんわ。
村山 : 消防入るがはみんな、酒飲みばっかやったね。酒飲まんな入れんもんな(笑)
山本 : まずは青年団で名をあげないとダメですから。で消防に入って名をあげて、町の重鎮に上り詰めるっていう。消防の団長、分団長して、そしてその街の重鎮に。
細川 : あの頃って消防車がわーって走ったら、街のみんな仕事してる人たちも法被着て、消防車に飛び乗って。ほんで火消しに行くんだよね。
山本 : 荷台乗ってねえ。危ないっちゅうからね、今もう中止になったけど。
細川 : みんなサイレン鳴ったらお店から飛び出てきて。みんな飛び乗って手伝いに行くんですもんね。
末岡 : 行った行った。俺ら若い時、普通の人ら仕事しとっさけね。仕事やめて、法被みたいなの着て、ほいて車飛び乗って、そっから火事やら地震やら。
山本 : 知らんかもしれんけど、無線てあるやろ。そういうお家には消防の無線がついとるんよ。そしたら消防と同時にその無線が入るわけや。例えば幸町火事やって。そしたらその店放り出して。
村山 : 昔は無線あったし電話もあった。同時に出るからものすごい速い。
消防の訓練もしていたんですか?
末岡 : 訓練はしとったんや。放水訓練とか、そういう。年に一回、そういう試合があっさけ。
山本 : そこに桜橋のとこに新竪町分団てあるやろ。きちっと消防ポンプ車一台持っとるからね。
末岡 : 各校下ごとに分団っちゅうがあったもんで、消防自動車から置いて、そっから出るっちゅうことや。昔みんな何でも、校下ごとに何でもあってん。
新竪消防分団員新旧交歓会|平成8年7月(新竪町公民館創立五十周年記念誌「しんたて」)
校下って何ですか?
末岡 : 学区や。菊川は菊川の小学校の学区や。
山本 : 今合併して犀桜小学校になったけど、そういう校下は校下で残っとるわけや。ややこしいけどね。
末岡 : 公民館とかは、みんな別の新竪公民館あるし、菊川には菊川公民館ちゅうがあって、それ今合併するかせんかでもめとれん。もめとるっちゅうか、組織が違うさけ。金を持っとる団体と持っとらん団体があって、一緒になった場合どうするかっちゅうがなんか言っとる。
山本 : 公民館も、金沢独自のなんかそういうのあったよね。
細川 : あ、そう?他の県行ったらないの?
末岡 : そうそう、校下っちゅう概念あんまないし。
そしたらその、校下の、普段商店とかされてる人たちが、みんな消火に行くんですね。それだけ火事が多かったんですか?
山本 : 多かったね。昔は燃える要素いっぱいあったでしょ。昔は天ぷら油なんてしょっちゅうやったし、寝タバコもあったし。
村山 : ここのうちもあったいね。おおばあちゃんの時。お餅つきのがで、せいろで。あの時分、みんな薪でやっとる。ほいて、おーい、隣火事やぞー!ちて。ほいてうちが魚屋やったんで、生け簀みたいがあって、そっからみんなバケツくんで消したんや。
細川 : その頃って台所ってほんとになんかコンクリートの土間があって、吹き抜けでしたよね。
村山 : そこで燃えとってん。おれ魚屋し始めたくらいや。17歳ぐらいや。
山本 : 年間200件超える火事あったかもしれんね。今きっと70か80件ぐらいしかないはずや。
村山 : 今の遊学館のあこに平野化学てあってん。うん、あの火事はすごかった。薬品が燃えとったし。
山本 : 平野化学、ビルもっとったはずや。
村山 : 平野化学っちゅうが今の笠舞の神社の手前のとこに、あこにもあったんや。ほんで、俺は知らんけれども、その頃は、兵隊さんのとこへ送るがの、ヒロポンを作っとったって。特攻隊はみんなヒロポン飲んで行ったんや。俺らの生まれた頃や、昭和10年ごろ。平野化学は今、どっか辰口かどっかあっちの方変わってったんない?第八連隊か。八連隊の司令部や。八連隊っちゅうが今の自衛隊の向かいにあったんや。でそのあと、兵舎の跡へ、わしら中学一年生の時にあこへ通った。
細川 : なに中学校?
村山 : 野田中学校。全部で24組まであったもんで。そん時50人ほどや、クラス。ほいて新校舎なってから65人なったんや。それでも学年に17組もあった。
細川 : すごい!
山本 : それで野田と城南分かれて。城南も多い時20クラスほどあったんや。
村山 : 城南中学校の、第1期の卒業生は昭和20年に生まれた。
山本 : 俺ら10期生やろ、だから6期か7期が城南の全盛期や、頑固に人おって。
村山 : ほやさけうちの弟、床屋やっとるが。あれが第1期の城南中学校卒業生や。ほんでも通ったがは野田やった。
細川 : でも城南中と分かれるのにもすごく大変な困難があったそうですね。
山本 : みんな反対したんやな、あんな田舎行くが嫌やて。だって竪町からあんなとこ行かんなんて、端から端やわいね。
村山 : ほんでも、僕らの時はあれやがいね。柿木畠からみんな同級生ずーっと歩いて、川淵歩いて、橋渡って。
末岡 : どう見ても遠いよね、昔あこまで通うが遠いとこ遠いわね。
村山 : ほりゃもう、長町校下と境やもん。
細川 : すごい大変で、城南がようやくできたみたい。
山本 : だから城南も、野田には絶対に負けるなって言っとったみたい。対抗意識燃やして。
村山 : 野田中っちゅうがは、広かったんや。冨樫の校下から、ずっと川上の方行った内川まで。みんな野田中へ通っとったんや。だから野田はマンモス校やった。ほんで中学3年の時の修学旅行、十何両の汽車を貸し切りやった。
ええ!
村山 : ひと学年に1200人ほどおってんもん。ほんであれ、一箇所にいっぺんに行けんがいね。奈良と、大阪と、京都と3つに分かれて、みんな交代交代で。
三八豪雪の竪町|昭和38年(新竪町公民館創立五十周年記念誌「しんたて」)
1963年、昭和38年に三八豪雪。
西川 : 三八豪雪はよく覚えてるね。小学校も旧校舎がまだあったでしょ。で、旧校舎の方は潰れるかもしれんっていって。新校舎の方の特別教室で授業したりとか、そういったあたりは覚えてる。
山本 : 俺も小学校2、3年生で覚えてるな。
村山 : 旧校舎は今の道路に目がけてこうあったもんな。一番上が家庭室で。
細川 : 私たちが1年生入った時って、旧校舎に並行して木造の新しい校舎ができとって、2階建ての。その鉄筋で作る前の木造の新校舎というか、新しい。1年生のときたぶん4クラスくらいあったと思うんやけど。その後や、その後で鉄筋のができたんやで。
村山 : わしらんとき講堂ってなかったん。
細川 : え、冬は体育どこでするんですか?
村山 : 冬はみんな外やがいね。冬はてなんも、体育の時間なんてなかった。
細川 : カリキュラムどうなっとるん(笑)
村山 : 小学校6年のときにヘリコプターが犀川の河川敷の、今の室生犀星のあそこに降りるっつって。ほいてクラスでみんな見に行った。みんないい加減の時間に帰ってんけど、俺だけ一番最後や。最後まで見とった。んでカツオ先生がどこいっとったーって!いやトイレ行ってきましたっちって(笑)あん時初めてやなヘリコプターちゅうのは。
第46回石川国体での聖火リレー|平成3年|第2回石川国体は昭和22年に開催(新竪町公民館創立五十周年記念誌「しんたて」)
「若い力」|昭和22年/1947年(コミュニティサイト「いいじ金沢」)
平成3年聖火リレーがあったんですね。
山本 : 国体の。第1回が京都で第2回が石川。
細川 : 聖火リレーいました?1991年の。
西川 : 66国体。あのー昭和で言うと66年で。のつもりだったら、天皇陛下が亡くなって、平成になって。だから準備している間は66国体やねって言っとった。
第2回は昭和22年だから、1947年か。
山本 : その時に「若い力」やったんか。第二回で。
今でも小学生やってますよね。体操ですよね。私もできます。
細川 : 昔は男の子だけやってん。しかも、上半身裸で。今は女の子もやってるよね、最近。人数少ないもんね。
ニュー三久発祥の地であるニュー三久城南店(株式会社ニュー三久ホームページ)
1965年あたりにショッピングモールができた。城南センターをご存知ですか?
村山 : あ、あれ魚屋と八百屋が合同して。
西川 : 菊川やろ。ニュー三久か。ニュー三久の前身や。
村山 : いまだにあれやろ、あそこが本店になっとる。前は城南センターちゅうのが入っとった。マツカワが社長やったんや。城南センターが一番先にできたんは、あれ、下菊橋の、あの前や。そのあとに、もう一つ上菊橋のとこの通りにできたんや。んであそこが事務所になった。
細川 : 記憶が蘇ってきたね、城南センター。
西川 : だからショッピングモールとはちがうんや。
村上 : ただの魚屋と八百屋。俺はちょうどその頃に魚屋やめたんや。センターみたいなのになって、月給取りになるんが嫌でやめた。
西川 : そのあとに笠舞の赤坂プラザができた。
末岡 : あれはでっかいもんな。
村山 : 横に西野のあれや、葡萄園。あのプラザのあっこもみんな西野の土地やったで。あっこで西野さんはスポーツセンターもやっとったわ、カラオケもやっとたし。
山本 : んで向かいにビデオショップかなんかあってね。
細川 : でスーパーもあってね。あの赤坂プラザの1画に年配の人たちらばっかりが集まる喫茶店みたいなのあって。まったりとした。
永井善隣館(金沢市善隣館協議会ホームページ)
村山 : 今は菊川の公民館ちゅうがはここにないがか。昔の法然寺というお寺のとこにあったはずや。
末岡 : 菊川は公民館とあれと別れとるやん。善隣館と。珍しいところや。公民館っちゅうのが川の方で、んでもう一つ善隣館が幼稚園のほうやわ。
村山 : 永井善隣館か。
細川 : あああれか。永井柳太郎の関連の。
公民館と善隣館はそもそも違うものなんですか?
末岡 : 昔は善隣館と公民館て同じような扱いやったんけど、今はきちんと分かれとるさけえ。
細川 : 今他に善隣館ってある?
末岡 : あるある、金沢4箇所くらいある。
細川 : 役割はどんなことする?
末岡 : 公民館とほぼ同じぐらい。学童保育とかほんなんする時に。
細川 : あそこ幼稚園とか保育園もあるもんね。
末岡 : 善隣館ちゅうのは昔の地主みたい人が集まって作った。んで公民館ちゅうのが新しくできて町会費でつくった。
福祉的な役割のものが善隣館しか昔はなかったってことですか。
末岡 : そう、善隣館は地主とか酒屋さんとか、みんなお金だしあって四人ぐらいの名前で土地買うとったはずや。
山本 : 新竪は善隣館まだあるんか。
西川 : 今でもある。
末岡 : 一応善隣館て名で活動しとる、名前はあるねん。公民館のなかにあるんや。
山本 : 公民館の中にあるんか!
末岡 : 今はもう一緒や。
山本 : ほんで善隣館の職員っておるん?
末岡 : 公民館の職員が手伝いしとる。
山本 : 変わっとるね。公民館も金沢珍しいよな。校下ごとに公民館ある。
末岡 : 昔は善隣館も校下ごとにあったんや。でも町たくさんでできたさけ、ないところがたくさんあったもんで。
山本 : ここの酒屋さんって財閥やったん?
細川 : 武士の出だと思うよ。
末岡 : すごい造り酒屋やってん。
細川 : 菊水っちゅうお酒がまず最初やってん、それから兼六。ほんでお父さんが亡くなられて、それで何か造り酒屋やめて小売りだけに変わった。
村山 : あっこは店と蔵がつらなっとって昔はでっかい桶あって。
山本 : だからいかに水が豊富かってことよね。美味しい水出んことには酒作れんから。
細川 : それでお父さんが亡くなられて、お部屋が10室ぐらいまであって、そんな管理できないからっていうので、今のマンションが。昔作ったにしてはしっかりしてますよね。あそこ。
末岡 : インペリアルコートや。
山本 : 万丸地所が作ったんか。
末岡 : いや、それはわからん。
細川 : でちゃんと各部屋プライベート守られて、光の入るように建てられとるもんね。あの当時高級マンションだったんじゃないかな。
住宅地図|昭和33年(石川県立図書館蔵)
村山 : でもよう変わったなあ。
細川 : でもずっとそこから変わらないおうちだってかなりありますからね。
この、新竪から菊川に抜ける商店街は、いつぐらいからお店がなくなっていったんでしょうか。昔の地図を見るとかなりお店ありますね。昭和33年。
村山 : 桜橋で循環線のバスが停まって、勤め人がみんなこの通りを通って行った。顔が見えた。
確かにバス停、地図に書いてありますね。
村山 : そこがメインストリートやった。城南にはそこしか行く道がなかったんや。だからこの商店街でみんな買い物して、帰っていった。
細川 : 全てが揃ったもんね。
村山 : だから笠舞の人らもみんなここ通って帰ってた。新竪2丁目通って、1丁目通って、川上の広見出て、んであっからまた、あれは松本町とかいろいろなところへみんな帰る。
細川 : でそこに芝原って酒屋さんがあって、そこに3人ぐらい並べるカウンターがあって、帰りにそこでみんな日本酒飲んでおうち帰る。
村山 : そんでうちの魚屋で刺身を買って、おうち帰る(笑)
いい飲み方!角打ちですね。
山本 : 昔酒屋に飲むとこあったんやね。
村山 : そうそうちょっと番台みたいなあってね。2人か3人くらいしか立てないような。
山本 : いいね、村山さんとこで魚買って、そこで飲めたらいいねえ。
村山 : うちで帰りしなに刺身こうては帰っていっとった。
山本 : 昔、寺木屋とかいう魚屋さんにも呑むとこあったみたいね。
村山 : 寺木屋っちゅうのはあれや、大橋のあの。のぼりがずーっとあったわい。ごく最近までやっとったんで。
山本 : 村山さんいつまで魚屋やられとったんですか?
村山 : 俺は23で結婚してすぐがやったな。24で中央生鮮になった。今もある新竪3丁目のあれと、百姓町にもあったんや。消防団員に能和っておるわい。そこに中央生鮮の店があってん。
末岡 : そこに4、5軒あった魚屋なんがみんな中央生鮮にまとまってん。
村山 : 大通りからちょっと入ったところに慶覚寺あるがいね。宮田の醤油屋の向かい。そこに能和の魚屋ってあってん。
山本 : 村山さんは能和さんの方の中央生鮮に入ったんですか。
村山 : 親は中央生鮮に入ってん。ほんで俺は魚屋やめた。
細川 : そんなんいやだって。一匹狼的やからそんなとこはいりたくないって。
山本 : んでどうされたん。
村山 : 澤田工業いってん。でもあれ、社員なれちゅったけど、社員は嫌だっちゅって。カエルの子はカエルやちゅて、ダンプ持ち込みで仕事しとった。よう十三間町にダンプ停めては下の交番所にようやられたわ。
細川 : まだゆるい時代やってんね。
村山 : ほいであの澤田工業の部長が山田商事に車停めて、薬取りにきとった。ほいで後でわざわざ言いにきたんや。おーい村山やぁ、あっこにお前停めてあるまいや、あんたの車がこれ、赤いダンプや。これいつもかも十三間町のあっこに停めてあるがい。わしが車庫入れんがいやっちって、あっこに車止めとったら駐車違反にやられてなあちゅて(笑)ほいで後で聞いたら部長やった。
じゃあ大通り出来て商店街がお店どんどん畳んで行ったみたいな感じですね。自動車もみんな持つようになっていったり。
村山 : うん、みんなねがなってった。
細川 : 人の流れが変わっちゃった。
村山 : 川上までバス行くようになってしもたしね、ここ通る必要がなくなったんやね。
村山 : 昔はこの町内で、無い店ってなかったん。全ての商店があった。大昔葬儀屋まであったくらいや。
まだまだ思い出話は続きましたが、今回はここまで。次回は元商店街で商いを続けられている方に、道路開通後の菊川・幸町エリアのお話をお聞きします。
編集 :川本望未 西本耕喜 日比野咲 藤井七星 山本周